ニューデリーに留まる僕は、今晩の宿を探すために、ザックを背負いながら メインバザールを歩いた。昼間でもインド人の客引きは健在だ。お決まりのセ リフを投げかけてくるが、相手にしないようにする。ただ夜に比べると客引き 以外の一般人も通りを歩いているので、声をかけられる頻度は若干少ない。
道端に並ぶ商店を冷やかしながら歩いていると、メインバザールでKIRAN GUEST HOUSEという安宿を見つけた。一晩120ルピーなので日本円で300円くら い。僕は手ぶらでニューデリーの街を散歩したかったので、ザックとベットの フレームをチェーン錠で繋いでから宿を後にした。それくらいしないとインド は危ないのだ。ホテルの従業員がザックを狙っているかもしれない。本当は部 屋のドアを南京錠でロックしたかったのだが、ドアに引っ掛ける部分がなかっ たので諦めた。
僕はコンノートプレイスという、インドには似合わない整備が行き届いた公 園に向かった。刈り込まれた芝生の上にベンチなどがあり、くつろぐのに調度 良い場所だが、何も僕はのんびりしに来たわけではない。ここには信じられな いくらい大きな耳クソを取る耳掃除職人がいると聞いてやって来たのだ。
情報によると公園の中を散歩していれば、探す間もなく向こうから近づいてく るらしい。「本当かよ！」と疑心暗鬼のまま公園を歩いていると、本当に数分 でそれっぽいインド人が近寄ってきた。
「ハロージャパニ〜」
獲物発見とでも思っているのだろうか、笑顔で話しかけてきた。声をかけて くるインド人は悪だが、今回はこちらが彼らに用事があるので目をつぶろう。 しかし物欲しそうにするとつけ込まれそうなので、気のない素振りで対応した。
「何かようかい？」
「私はイヤークリーナーだ。耳をきれいにしてあげようじゃないか」
こいつが噂の耳掃除職人か。彼はイスラム・ディンと名乗った。
「君の耳を掃除してあげよう」
「耳掃除？耳の中をきれいにしてくれるのかい？」
「そうだ。アズユーライク？」
アズユーライクとは何だろう。As you likeかな？likeと言っているんだから 好きか？と聞いているのだろうか。
「Yes」
「オーケーオーケー！」
すると彼は僕の頭を触り、芝生の上で横になれと指し示した。
「ノーノー。ちょっと待てよ。耳掃除は好きだけど、やってくれなんて言って ないだろう。それに値段はいくらなんだよ。それを先に言えよ」
すると彼は笑みを浮かべながら、カバンからノートを取り出した。
「このノートを見てくれよ。これはマイフレンドに書いてもらったメッセージ なんだ」
ノートには数ページに渡って日本語と、写真が貼られていた。写真には日本 人とイスラム・ディンが一緒に写っている。メッセージには「私はディンさん に耳掃除をしてもらいました。びっくりするほど大きいのが取れて感動です」 など彼を褒め称える言葉が書かれていたが、マイフレンドというのは嘘だ。そ してこのノートは日本人旅行者を信用させるために、耳掃除を体験した人に書 かせたものだろう。
だがメッセージに書かれていたのは良いことだけではなかった。「腕は確かだ けど■■■ルピーなんて高すぎ。このノートを見た人は気をつけてください」。 ■のところは数字だが値段が分からないように書き潰されていた。恐らくイス ラム・ディンが相場が分かってはまずいと思い、消したのだろう。
しかしそこは日本人の方が一歩上だった。その後に書かれていたメッセージに は、「私は四百ルピーでやってもらいました。だまされた」、「私はごひゃく るぴー払わされました」など漢数字や平仮名が使われていた。宿の料金が120 ルピーなのに、耳掃除で500ルピー取るとは確かにボッタクリだ。ありがとう 先人たちよ。どのくらいの金額が妥当か分かった気がする。
「どうだいこのノート。みんな喜んでくれてるだろう」
「そうみたいだね」
「アズユーライク？」
「イエス」
「オーケーオーケー！」
すると彼はまた僕の頭に触り、横になれと言った。
「だからちょっと待てよ。値段はいくらなんだよ」
「値段はアズユーライクだ」
「意味分かんねぇよ。10ルピーでやれ」
「そりゃダメだ。500ルピーでやってあげよう」
「ノー。10ルピー」
「オーケー分かったよ。私とキミはフレンドだ。300ルピーでやってあげよう」
お前となんかフレンドじゃねぇよ。取り敢えず目標の金額は宿代の半値だ。
「ダメだ。じゃあ30ルピーでどうだ」
「分かった私の負けだ。250ルピーで決まりだ」
そこで僕は立ち上がった。
「それならもう良いよ。バイバイ」
するとイスラム・ディンはさらに値段を下げてきた。
「オーケーオーケー。200ルピーだ。これ以上は負けられない」
これではまだダメだ。僕は切り札を出した。
「俺の泊まる安宿の値段は一晩120ルピーだ。それ以上の値段なんて絶対にダ メだ。50ルピーでやれ」
この言葉には彼も折れざるを得なかった。彼は苦笑いしながら、芝生の上に 寝てくれとジェスチャーをした。芝生の上に横たわるとイスラム・ディンは耳 掃除の道具を取り出した。横目で見ていたのでよく分からなかったが、日本で 使う耳掻きとは少し形が違うように見える。
その頃、僕の周りには数人のインド人が集まってきていた。彼らは耳掃除の 見物に来た訳ではない。口々に「肩をマッサージさせてくれ」、「靴を磨かせ てくれ」などと言っていた。ひとりの男は僕が「オーケー」と言っていないの に勝手に足を揉みはじめたが、気の弱そうな小男だったので放っておいた。
イスラム・ディンが耳掃除を始めた。もしかしたら耳の中を傷つけられるの では？という危機感はあったが、彼の腕を信用することにした。耳の中の奥深 くにインド製耳掻きが入っていく。耳掻きが数回往復すると、彼が話しかけて きた。
「ほら、耳垢が取れたぞ。見てごらん」
僕は上半身を起こしてイスラム・ディンの手の平を見た。そこにはわずかな 塊があるだけだった。僕の耳の中はすごいきれいで、取るべきものがなかった のだろうか。
「これだけなのかい？」
「いやー大変だよ。こんなにたくさんあると思わなかった」
ん？これだけしか取れなかったんじゃないの？これでは自分でやるのより少 し多い程度だ。僕が呆けていると、彼がもう一度寝るように指図した。そうだ。 これはまだ序盤戦だ。職人ならもっと取れるはずだ。期待を胸に抱き目を閉じ ると彼が口を開いた。
「いま取ったのは耳の穴の手前にあった垢だ。その奥にはもっと耳垢がある。 けど50ルピーではもうおしまい」
「なんだと！」
イスラム・ディンはカバンから小さな小瓶を取り出した。
「奥の耳垢を取るには、このスペシャルウォーターが必要なんだ。これを使え ばすごいのが取れるよ」
「じゃあ使ってくれ」
「じゃあもう150ルピーね」
「てめぇ！」
そうか…そういうことなのか。こうやってみんな騙されていくのか。初めか ら200ルピーと言われていたら、やらなかったし値段を交渉していた。50ルピー でその気にさせておいて、後からプラス150ルピーを要求する。それがコイツの 手口だ。だけど僕は芝生の上に寝転び足を揉まれながら、200ルピーならたかが 500円だなと計算していた。
「わかったよ。合計200ルピーで良いからやってくれ」
「オーケーオーケー」
この時のイスラム・ディンの笑顔はとてつもなく憎々しかった。コイツは許 せない。僕の耳の中にスペシャルウォーターという名の怪しい水が注がれた。 この液体の正体はまったく分からない。単なる水かもしれないが、彼は「硬い 耳垢を柔らかくするマジックウォーターだ」と言っていた。
液体を注ぎ終えるとイスラム・ディンは僕の頭を軽く持ち上げて、ゆっくり と揺らした。こうすることにより液体が耳の中の隅々まで行き渡るのだろうか。 回し終えると、彼は再び耳掻きを奥の方へと入れた。僕は目を瞑った。すごい 奥まで耳掻きが入っている気がする。
「オー、ベリーグッドね〜」
イスラム・ディンが僕の肩を叩いた。上半身を起こし彼の手の平を見ると、 小指の第一関節くらいの大きさの湿った物体が鎮座していた。
「こ、これが耳垢なのか！」
耳の穴の壁面に張り付いていたのが丸ごとボロリと出てきたような耳垢だ。 すごい、彼の腕は本物だ。スペシャルウォーターなんて嘘クセェと思っていた けど、イヤイヤ今でも嘘臭いとは思っているけどそれでもすごい。日本でブー ムになった健康用品オッタマゲーションとは大違いだ。僕が驚き喜んでいると、 イスラム・ディンもうれしそうに笑みを浮かべていた。
「どうだいスペシャルウォーターの力は。すごいだろう？」
「すごいすごい。こんな大きなのが耳の中に入っていたなんて驚きだよ。この 調子でもう片方の耳もやってくれ」
すると彼は目の奥を光らせ、唇を歪めながら言葉を発した。
「もう200ルピーだ」
「え？」
歓喜から憤怒へ。
「最初の200ルピーは片耳の料金だ。もう片方の耳をやってほしければ、もう 200ルピー払え」
「ふざけるんじゃねぇ！」
僕は彼の手を払いのけて立ち上がったが、人を罵倒する英語を知らなかった ので睨むことしかできなかった。そして僕は片耳代の200ルピーを財布から取 り出し彼に渡してその場を後にした。騙されたのにお金を払う僕はお人好しだ。
僕は怒りのオーラを発しながら、コンノートプレイスを彷徨った。しかし歩 きながらあることに気がついた。僕の耳は大きく口を開けたりすると、奥から ガサガサという異音がしていたのが、片耳だけ音がしなくなっている。異音の 正体は巨大な耳垢だったのだ。イスラム・ディンは糞だが腕は確かだったのだ。 しかし、片耳だけか…
公園を歩いているとひとりの男が後ろから近づいてくるのに気がついた。さ きほど勝手に足をマッサージしていた男だ。
「足のマッサージ代をもらえないかな…」
「黙れ！」
男は回れ右をして小走りで逃げていった。僕はコンノートプレイスを後にした。
Before Story
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