デリー空港へと向かう車の中で、シムラーに到着してからの注意を受けた。 シムラーの空港では、僕が泊まるホテルのオーナーが迎えに来ており“1417” と書かれた紙を持っている。到着したら彼がホテルまで連れて行ってくれる。 同じように紙を持っている人間が、他にもいるかもしれないので“1417”とい う数字を忘れないようにして欲しい。また外国人を見つけると話し掛けてくる 人がいる。彼らに着いて行くと、トラブルになるので気をつけるように。
デリー空港に到着。ザックに入れた荷物を抱えて車を降りた。旅行会社の人 間は、どのゲートから飛行機に乗れば良いのかなどを親切に教えてくれ、最後 に飛行機のチケットを僕に渡した。
「じゃあ気をつけて」
と旅行会社の人間は言い、自分の車へと向かった。僕は手を振りながら感謝 の言葉を言ったが、彼は1度も振り返ることなく車に乗り込み、そしてエンジン をかけて空港の敷地内から出て行った。昨晩はそれなりに話をして笑いあった のに、自分の仕事は終わったとばかりに引き上げる姿に寂しさを感じた。
空港に入り発着掲示板に目をやると、僕が乗る予定の飛行機の行き先に“シ ムラー”と書かれていないのが気になったが、目的地と空港の名前が異なって いるのだろうと解釈。なにより、旅行会社の人間の言っていた飛行機の番号は 書かれている、僕は発着の時間まで安心して空港内で時間をつぶした。
チェックインの時間になり手荷物の検査を受けようとすると、X線での調査以 外に荷物の全検査が始まった。ザックに入っているすべての物をプラスチック のトレイにぶちまける。そして係員が抜けのないように、荷物をチェックして いく。するとふたつの物が選り分けられた。ライトと石鹸だ。
「これはなんだ」
「ライトと石鹸だ」
「ライトには電池が入っているのか」
「入っている」
「それは機内には持ち込めない。コチラに預けてくれ」
僕はライトから電池を取り出して、彼に預けた。
「こっちはなんだ」
「これは石鹸だ」
「これも機内に持ち込めない。ここで預けてくれ」
僕は石鹸も彼に渡した。なぜ石鹸を機内に持ち込むことができないのか。電 池に関しては良いだろう。正確なところは分からないが、爆弾の発火装置など に使えるからだろう。そして石鹸だが、実はコレも爆弾に関係があるのだ。と 言っても映画「ファイトクラブ」で、そんなことを言っていたような気がする というレベルだが。石鹸から爆弾の原料を取り出してドーノコーノ言っていた 気がする。とにかくインドでは機内に石鹸は持ち込めない。僕は預けたものを 書類に書き込み、搭乗に備えた。
出発の時間になり飛行機に乗り込んだ。乗客は全員インド人に見えた。そし て金を持っていそうな雰囲気が漂っている。ジーパン姿の典型的なバックパッ カーの格好をした小汚い外国人は僕しかいなかった。乗客は200人くらいだった だろうか。狭い機内はほぼ満員だった。
飛行機が離陸して1時間もすると到着のアナウンスが流れた。東京〜福岡間を 飛んでいるのと変わらない。短いフライトだったが、僕は墜落することばかり 考えていたので無事で良かったと胸を撫で下ろした。
シムラーの空港に到着すると外国人だけが係員に呼ばれた。行ってみると、 出身国や住所、名前を書くように言われたので、僕は指示に従った。そうして いるうちにひとりのインド人に呼び止められた。
「おまえはジャパニか」
「そうだ」
「Shihoか」
「そうだ」
「お前が今日から泊まるホテルのオーナーだ。こっちに来てくれ」
鋭い目つきに髭を生やした恰幅の良い男だった。笑顔を想像できない威圧的 な印象を与える男。悪人顔だ。
「ちょっと待ってくれ。お前はナンバーを持っているのか」
「これのことか？」
そういうと彼はポケットから“1417”と書かれた紙を出した。僕は一応、彼 のことを信用してついていった。
「車で一緒にこれからホテルに行くから」
そう言われ空港を出たが、そこにはインドに到着した時、デリー空港で見た のとは別の怖さをもった人たちが大勢いた。一般人に混じって、肩から機銃を 下げた兵士が何十人といる。
空港の外で待っていたのは兵士だけではなかった。滑走路と一般道を隔てる フェンス越しに、何十台もの軍用車両が並んでいた。シムラーは観光地と思っ ていたが、それは誤りのようだ。なぜ空港に軍がいるのか。それは敵からの攻 撃を阻止するのに他ならない。シムラーとはそういう場所だったのだ。
僕は物珍しげに軍人である彼らを見ていたが、彼らも僕のことを見ていた。 外国人が珍しいのだろうか。気のせいか笑われているような気がする。僕はホ テルのオーナーに置いていかれないように早歩きでついて行き、彼の車に乗り 込んだ。車の中でオーナーはジョンと名乗った。
この街は何かがおかしいと感じ始めていた。色々なことに警戒しておく必要 があるかもしれない。ジョンはこれからホテルに直行すると言った。僕は助手 席で車のメーターと走行時間をチェックした。おおよそ時速50キロのスピード で車は走っている。空港を出てから30分ほどすると目的地に到着した。空港か らホテルまで約25キロというところだろう。歩いていけない距離ではない。だ が空港がある方角は分からなかった。
ホテルに到着したと言う場所には、湖に面した広い空き地があるだけで建物 は見当たらなかった。不審そうにしている僕をジョンが手招きする。彼に呼ば れるまま空き地を歩き、湖に近づいた時に気がついた。まさかアレが僕の泊ま るホテルなのだろうか。だが予想を裏切ることなく彼は言った。
「これがお前の泊まるホテルだ」
それは湖に浮かぶ船だった。屋形船を立派にしたような船が何隻も浮かんで いる。これがホテルなのかと最初は落胆したが、中に入るとその印象は変わっ た。決して、船を改造してどうにか人が住めるようにしたという粗末な物では なく、多少古ぼけてはいたが高級感の漂う家具やベットが置かれていた。日本 の一泊1万円前後のホテルよりは立派な作りだ。
ジョンからひとりの男を紹介された。
「彼は君の身の回りの世話をするラムザンだ。何か頼みたいことがあったら彼 に言うと良い」
割り合い高級感の漂う宿に泊まれる上に、ボーイまでつくのか。ラムザンは ジョンと違って、腰の低そうな顔をしていた。身長も160センチくらいと小柄 だったので、親しみやすい感じがある。しかし目に若干の狡さを感じなくもな い。これは僕のインド人を見る目が偏っているからかもしれないが。
ラムザンの紹介が終わるとジョンがまた話しかけてきた。
「これから私の家に行って昼飯を食べよう。その間、ラムザンにホテルを掃除 させておく。良いね？」
僕はイエスと返事をしたが、本当はディンとの待ち合わせが気になっていた。 ホテルの前で待ち合わせようと彼と約束をしたので、それを破ることはしたく なかった。ジョンにディンのことを尋ねたかったが聞けなかった。「そんな男 は来ない」と言われるのが怖かったのだ。
ジョンと僕は再び車に乗り込んだ。ホテルからジョンの家までは数十分の時 間を要したが、僕はもう距離を確認するのを止めていた。それよりも目を見張 るものが車の窓から見えていたからだ。
この街はデリーよりも貧しくて、ひどく湿っている。デリーも日本に比べれ ば貧しかったが、うるさいくらいの活気はあった。だがここにはそれすらない。 市場らしき場所を通ったが、露天の主にも客にも元気はなかった。専門家でな いので分からないが、土も痩せて死んでいるように見える。農作物を育てるに は適さない大地のようだ。
ホテルを出発してすぐのこと。湖へと流れ込む川があったが、その川を渡る 橋の上には、銃を担いだ兵士が立っていた。僕は今まで何ヶ国か旅をしたが、 空港はもちろん街中で兵士を見たことがない。
そしてその川には黒い馬が歯をむき出しにして倒れていた。決してきれいでは ない川の水を飲もうとして、力尽きたのかもしれない。死んでから、数日経っ ていたのだろう。体の一部が腐っているように見えた。しかしその死肉を数匹 の成犬と子犬が貪っていた。朽ちた馬肉が犬たちの血肉になっていく。人間と 同様、インドの犬もまた逞しい。日本で飼われた犬には真似できまい。この国 には、輪廻転生が身近にある。
ジョンの家に到着すると家の大きさに驚かされた。3階建ての一軒家に広い 庭がついている。まだ工事中の箇所もあったが、充分豪邸と呼んで良いだろう。 日本でもこれだけの家に住んでいる人は多くない。
家の中に通されると3匹の糞ガキ様がいた。1匹は言葉を話せない年齢の男児。 残り2匹は小学校に入りたてのような男の子と女の子。外国人の僕が来ても普通 だった。この家にはよく外国人が来るのだろうか。
昼飯はカレーライスだった。金属製の皿にパサパサのライスとサラダ、ヨー グルトが盛り付けられる。そしてライスの上にスープ状のカレーをかけて、右 手を使って混ぜ合わせる。カレーは熱いが金属製の皿が、直ぐに熱を冷まして くれる。味はまぁまぁだったが、素手でご飯を食べるのが面白く楽しくて気に 入ってしまった。
その後、水パイプを吸ったり糞ガキ様の相手をしてあげたりしてから、ホテ ルに戻った。時間は15時くらいだっただろうか。しかしホテルにディンの姿は なかった。
そして僕は真綿で首を絞められていることに気がつき始める。
Before Story
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