ニューデリーの旅行会社の人間の家で、ディンはホテルの前で待ち合わせを しようと言った。僕の英語力は極めて低いが、それは間違いないと思う。彼は 別れ際、僕にウインクをした。それはホテルの前で会おうぜという意味と僕は 捉えていた。
空き地からはうっすらと雪が積もったヒマラヤ山脈が見えた。僕の視界にK2 はあるのだろうか。そしてヒマラヤ山脈とは逆の方角に、要塞のような城を頂 上に持つ小高い山があった。辺りはひっそりと静まり返っていたが、時折通る 車のエンジン音と、湖の波頭がボートにぶつかる音はした。
しばらくすると空き地を囲むフェンスの入り口に2台の車が止まり、中から 6人ほどの男たちが降りてきた。先頭にジョンはいたが、他の男たちには見覚 えがない。もちろんその中にディンはいなかった。男たちがフェンスのゲート を開けて、空き地に入り僕の前に並んだ。先頭のジョンが口を開いた。
「これからツアーの計画を立てるので、ホテルに入ってくれ」
トレッキングの話をするのだろう。僕がボートハウスの中に入ると、ジョン と一緒にその他の男たちも部屋に入ってきた。彼らは何者なのだろう。ツアー 会社の人間なのだろうか。男たちはアタッシュケースや大きな袋を抱えていた。 僕は3部屋あるうち1番大きな部屋に全員を招いて、カーペットがひかれた床に 座った。
するとジョンを先頭に正体不明の男たちも床に座った。ジョンはパンフレッ トを取り出し、ツアーの説明を始めた。
「君はトレッキングをやりに来たようだが、今は冬だからやめた方が良い。ト レッキングではないが、山に行けるツアーがあるからそれに参加しろ。美術館 に行く気はないか。きれいな庭園を見てみないか」
トレッキングをやる目的でシムラーに来たのに、現地に着いてからそれはで きないなんて詐欺ではないか。ディンが聞いたら怒るだろう。ただ僕はトレッ キングにそれほど興味はなかったので口には出さなかった。僕はジョンが説明 してくれた中から参加したいツアーを、いくつかチョイスした。全部で5つほど 選んだだろうか。
「じゃあ、このツアーに参加するから日程を教えてくれ。それと値段だ。全部 でいくらになるんだい？」
「日程の方は問題ない。こちらで調整してあげよう。値段の方だがこれらに、 全部参加すると2000ドルかかる」
「2000ドル？2000ルピーの間違いだろう？」
「ドルだ」
日本と比べて物価が極端に安いインドで、2000ドルは大金だ。2000ドルの年 収を稼げない人など、インドには山ほどいる。その大金を数日のツアーの参加 費用として払えと言っている。この時初めて確信した。僕は嵌められている。
「ふざけるな！そんな金は持ってないし、あっても払うわけないだろう！」
ジョンはこういう場面に何度も出くわしているのだろう。静かに口を開いた。
「ツアーに参加したいと言ったのは、君じゃないか。私は君のためにツアーを 紹介したのに、何を怒っているんだ」
「オレはトレッキングをやりにシムラーに来たんだ！それにこの法外な値段は なんだ！」
「旅行会社の人間に何を言われたかは知らないが、今はトレッキングの季節で はない。トレッキングは夏にやるものだ。こんな季節に山に登ったら寒さで死 んでしまうぞ。それに料金も決まっているもので、みんな払っている。そんな ことを言うのは君が初めてだ」
絶対に嘘だ。目の前の男を殴り倒してやりたかったが、体格的に見て敵いそ うになかった。しかもジョンの後ろには5人の男たちが控えている。戦っても 勝ち目はない。
「俺が初めてかどうかは関係ない。じゃあツアーは中止だ。俺はどこにも行か ない」
するとジョンが男たちに何かを呟き、全員が立ち上がった。少し強く言い過 ぎたか。こいつらに囲まれて袋叩きにされて金を奪われると思ったが、ジョン と男たちは何も言わずに部屋を出て行った。いきなり殴られるよりも恐怖を感 じる。男たちが持っていたアタッシュケースに拳銃が入っていて、それの用意 をしているのだろうか。大きな袋の中には、武器が入っててそれで威しをかけ ようというのだろうか。
そして、1分もしないうちにひとりの男が部屋に入ってきた。男は部屋のドア を開けて中に入ると、笑顔を浮かべながら僕の前に座った。男は柔和な顔をし ている。
「私はこのホテルを管理しているラフィオと言うものだ。彼らは外に出て行っ たよ」
この人の良さそうな男を見て、僕は彼らの手口に気がついた。当然、断られ るであろう法外な値段を旅行者に提示して、拒否されたら値段の交渉に移るの だ。オーケーならばラッキー。はっきり言ってジョンの顔は怖い。その後にこ の男が出てきたら、普通の人は心を許してしまうだろう。
「2000ドルなんて高すぎるよね。メチャクチャだと思うよ。けどあのツアーに はそれだけの価値があるんだ」
「とにかく俺は2000ドルなんて持っていないし、ツアーには参加しない」
「では一体いくらなら出せるんだい？」
僕のその時の所持金は1500ドル程度だった。この金額で残りの35日ほどを、 生き抜くつもりでいるが、物価の安いインドなら1日30ドルあれば充分やってい けるので無茶ではなかった。仮に余計な出費があっても、VISAカードを持って いるので大都市であれば現金を手に入れられる。とは言ってもツアーに使える 金額は限られる。200ドル程度が限界ではないだろうか。
「ツアーに出せる金額は100ドルだ。それが僕の精一杯だ」
「おいおい、それでは2000ドルの1/20じゃないか。それは無理だよ。それでは 外で待っている彼らに説明できないよ。1800ドルくらいでどうだい？」
いつの間にか僕の選択肢が、いくらでツアーに参加するかに限定されている。 そして僕の頭からも、ツアーには参加しないという考えが抜け落ちていた。ツ アーを完全に拒否した時に、何かされるのではないかという考えもあった。値 段の交渉が始まった。
「俺は1200ドルしか持っていない。1800ドルなんて出せない」
1200ドルと言うのはもちろん嘘だ。自分の手の内を明かすわけにはいかない。
「1200ドルだって！そんな金額でこの街に来たのか。それでは1800ドルは無理 だな。ツアーの数を減らして、もっと安くなるようにしなくちゃ」
そういうとラフィオは、僕の意見を取り入れることなくツアーを3つにした。
「僕の選んだこのツアーなら800ドルで良いよ。2000ドルから1200ドルもひいた んだから半値以下だよ」
「僕の所持金は1200ドルなんだよ。ここから800ドル払ったら残り400ドルしか 残らないじゃないか。ツアー料金400ドルなら考えるよ」
その後、何回かやり取りを繰り返した結果、ツアー料金は650ドルということ になった。これでもまだボッタクリだとは思ったが、弱気な僕は彼らに少しお いしい汁を吸わせておかないと後が怖いと、自分に言い訳をして納得した。残 りの所持金は850ドル。とても心細い金額だ。どこかでカードを使って金を得な くてはなるまい。
そしてラフィオは僕から「650ドルでオーケー」の言葉を引き出すと、外にい るジョンたちの所へ行った。少しするとジョンとアタッシュケースや大きな袋 を持った男たちが部屋に現れた。
「ラフィオから聞いた。君はあまりお金を持っていないんだな。仕方がないか ら、ツアーは650ドルで良いよ」
ジョンはそう言うと後ろに下がり、他の男たちが僕の前に並んだ。男たちの 前にはアタッシュケースや大きな袋が並べられている。男がアタッシュケース のキーを外した。男が大きな袋の口を結わえる紐をほどいた。アタッシュケー スの中から出てきたのは宝石だった。大きな袋の中から出てきたのは敷物だっ た。法外なツアー料金を取ったうえ、更にこれらの品を買えと言うのか。
「こんなもの買うわけないだろう！」
そう言うと男たちは引き上げた。ジョンとラフィオも夕食の時にまた来ると 言って、ホテルを出て行き僕はひとりになった。
僕は騙されている。言葉巧みに上手い話を持ちかけ、それに乗って騙される ヤツを小馬鹿にしていた僕が騙されている。自分こそは大丈夫と思っている人 こそ気をつけなさいと、地球の歩き方に書いてあった。それを読んでもまだ、 自分は他のヤツとは違うと思っていた。すべてのインド人を信用してはいけな いと、心に決めていたのに。だがこの時の僕は、更に重大なことで欺かれてい ることに気がついていなかった。
僕はとりあえず自分の泊まる宿を見てみようと、ハウスボートの各部屋を見 てまわった。部屋は全部で3部屋あり、ひとつはシャワールームと隣接したダブ ルベッドとシングルベッドが置かれた部屋。ひとつはシングルベッドと鏡台、 机を置いた部屋。このふたつの部屋はボートの両端にある。そしてふたつの部 屋の真ん中に、机とタンスが置かれた狭い部屋があった。
その狭い部屋には、日本語で書かれた文章が額に入れられ飾ってあった。日 本を出て4日しか経っていなかったが、僕はインドの辺境で日本語に出会えて懐 かしい気持ちになった。どうやらこのホテルに泊まった日本人観光客が書いた ものらしい。僕は喜々としてその文章に目をやった。
「皆さん、こんにちは！スリナガルへようこそ！！」
僕は額に入った日本語を目で追った。
「皆さん、こんにちは！スリナガルへようこそ！！
そしてこのハウスボートのそばを通りかかったあなた。このハウスボートに 宿泊する予定のあなたに“ラッキー”の言葉をおくります。
何故なら、ここの人たちは観光客を親身になって助けてくれるからです。 トレッキング、フィッシング、レーやラダックへのチケットの予約、町の案内 などなど…。
実際に1ヶ月ここで滞在した私が言うのですから、間違いはありません。 100%信じて下さい。 XXXXXXX REIKO（日本）」
「スリナガルへようこそ！」と書かれてはいるが、僕はこの地名を知らなかっ たので、シムラーの中にある村の名前やハウスボートのホテル名だろうと考え た。しかし僕の疑念は強まるばかりだったので、ザックの中から地球の歩き方 を取り出して索引に目を走らせた。スリナガルのページがあった。スリナガル は村の名前ではなかった。
スリナガルとはインド最北の地にある避暑地として有名な場所で、海抜1700 メートルの盆地にあるため夏でも涼しくて過ごしやすい。またダル湖に浮かぶ ハウスボートが有名だと書かれていた。ハウスボートはいま僕がいる場所だ。 念のためシムラーのページを開いてみたが、ハウスボートの記述はなかった。
僕はシムラーには来ていない。騙されてスリナガルに送られている。僕はど こで罠をかけられてのだろうか。デリーの旅行会社だろうか？いいや違う。考 えたくはなかったが、トルコ人のディンが一番怪しい。事実、ディンはホテル に現れていない。
デリーの街角で道に迷った振りをして、カモの外国人に声をかける。そこで ある程度親しくなっておき、一緒にインドを旅行しようと持ちかける。そして、 あとはグルの旅行会社に連れて行き、スリナガルへ送るための手はずを整えて 完了だ。
いま思えばおかしな点がいくつも思い浮かぶ。ディンがしてくれた火事の現 場に消防車が訪れる話。同じ話を旅行会社の人間の同居人がしてくれた。これ は、ディンと彼らが以前から交流があったことを意味するのではないだろうか。
旅行会社の人間がやたらと日本人のパスポートを僕に見せようとしていた。 これは、今まで何人もの日本人がツアーに参加しているんだと僕を安心させよ うと試みたのだろう。さらに僕が行き先を確認した飛行機のチケットが、書き 損じたと言って破られている。そして2度目のチェックのときは、行き先を隠し ていた。恐らくそこには、スリナガルと書かれていたはずだ。
すべてを疑ってかかっていれば、いくつも気がつくチャンスがあったのだ。 僕は自分の愚かさを悔いた。
僕は額に飾られた日本語を書いた人物の名前にも驚かされた。デリーにいる 時から何度も聞かされたXXXXXXX REIKOの名前。旅行会社の運転手と社員は、 彼女と寝たと言っていた。スリナガルの空港からハウスボートに僕を案内した 凶悪顔のジョンも、彼女とやったと言っていた。
その彼女がここにいたのだ。自分から望んでスリナガルに足を運んだのか、 僕のように騙されてこの地に来たのかは分からない。ただ文章を見る限り、彼 女はここでの旅行を楽しんだのだろう。想像したくはなかったが、インドの男 たちと愉悦のひと時を過ごしたのかもしれない。
僕は今後のことに強い不安感を抱きながら地球の歩き方に目をやり、ページ をめくった。そこには、赤い太文字でスリナガルに関しての注意事項が補記さ れていた。
以下、地球の歩き方より引用
「※1999年10月末現在、インド・パキスタン停戦管理ラインを挟み武力衝突が 続発している。'95年に発生した外国人ツーリスト誘拐事件も未解決のままなど、 治安がよくないため、レーを除くジャンムー・カシュミール州には渡航延期勧 告が出されている。情勢は極めて不安定なので、この地域に関してはデリーの 政府観光局などで確認を取ること。この項は、あくまで状況が好転した際のガ イドとして利用することを前提に掲載している。」
自分の目を疑った。自分の置かれた状況を受け入れたくなかったので、何度 も読み返した。しかしどう考えても、ここがスリナガルであるという答えを覆 せない。地球の歩き方には地図も載っていた。ここはインドとパキスタンの停 戦ラインから100キロしか離れていない街だと分かった。
自分の置かれている立場を認識して、絡まっていた糸が一気にほどけ始めた。 空港や街中にいた兵士は、停戦中とはいえパキスタン軍からの侵攻に備えてい たのだ。痩せた大地と活気のない人々は、停戦時下という特殊な状況が作り出 したのだろう。
現在、外務省では世界各国の危険度を4つのカテゴリーで区分けして、旅行者 に渡航の注意を促している。一番危険とされる“退避勧告”はイラクやアフガ ニスタンに発令されており、二番目に危険な“渡航延期勧告”はイスラエルの 全域に出されている（2004年11月現在）。そしてスリナガルもイスラエルと同 じ渡航延期勧告の対象だ。僕は自爆テロなどが頻発するイスラエルと同レベル の危険地帯にいる。
僕が抱いていた不安は絶望へと変わった。
Before Story
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