このホテルには当然ながらテレビなどは設置されていない。しかし部屋に備 え付けられている家具の引き出しの中を調べていると、女性自身や日本語の小 説を見つけた。今まで何人かの日本人が泊まったのだろう。僕は日本ではまず 読まない女性自身を読みふけった。
しばらくするとラフィオが現れた。僕を懐柔しようとした柔和な顔のインド 人だ。
「やあ調子はどうだい？君のことが心配で来たよ」
「何が心配なんだい？」
「君は全然お金を持っていないと言っていたじゃないか。もし良かったら今後 のプランを教えてくれないか」
見え透いている。コイツは僕を心配する振りをして、さらに金を引っ張り出 そうとしているのだ。どこまで本当のことを言うべきかラインを決めておこう。 そうしないと本当にインドでの旅行を続行できなくなる。とりあえず、カード を持っていることを覚られてはいけない。
「僕はあと約35日間をインドで過ごす予定だ」
「どういうルートで旅をするんだい？」
「ここから南に下りてチェンナイまで行く。その先はまだ決めていない」
「35日間と言ったけど所持金はいくらなんだい？」
「1200ドル持っていたけど、君たちにツアー料金を払ったから550ドルしか持っ ていない」
本当は850ドル持っていたが秘密にしておいた。さらに「財布の中を見せろ」 と言われた時に嘘がばれないように、300ドルは薬を入れるポーチの中に移して あった。
「君は正気か？550ドルしか持っていなくて、しかもチェンナイまで行って旅を 続けられると思っているのか」
「ダメかもしれない。ここで650ドルのツアー料金を取られると思っていなかっ たからね。良かったらあのツアーをすべてキャンセルしてお金を返してくれな いか？そうすればこの先もインド旅行を続けられる」
「それはダメだ。ツアーはすべて予約してしまった」
「心配している」と言いながら、結局は金なのだ。
「君は何か金目のものは持っていないのか？あれば私が売ってきて上げよう」
そういうとラフィオは僕のザックを取り上げて、ひとつずつ品物のチェック を始めた。ホテルの従業員が宿泊客の荷物を堂々と漁るなんて普通は考えられ ない。強く拒否しようと思ったが、そうすると逆に金目のものを持っていると 勘ぐられる可能性があったので、敢えてやりたいようにやらせた。
もっとも僕が危惧していたのは薬を入れたポーチだけで、金目の物といったら 一眼レフのカメラと望遠レンズだけだった。このふたつは僕が肩から下げてい たのを何度も見られているので隠す必要はない。ラフィオは結局カメラ以外の 金目のものを見つけられなかった。
「このカメラとレンズを売る気はないのかい？」
「これは大切な物なのでダメだ。これから旅を続けていくのに必要だ」
「何を言ってるんだ！お金がなければ旅自体続けられないんだぞ」
彼に怒鳴られる筋合いはない。僕のことが心配なら、ツアー料金を返せば良 いじゃないか。ラフィオの強い口調に腹を立てた僕は少しの間、黙っていた。 するとラフィオが思い立ったように口を開いた。
「ああ、そうだ。君はクレジットカードを持っていないのかい？」
僕はVISAカードを財布に入れていたが、これもお金と同様見つからないよう にポーチの中に忍ばせていた。クレジットカードという後ろ盾があるからこそ、 僕はツアー料金を払うことができたし安穏としていられた。逆にカードを持っ ていることだけは覚られたくない。
「カードは持っていない」
「カードを持たずに海外旅行をしているだって？！信じられない！」
彼の言うとおりだ。クレジットカードを持たずに海外へ行くなんて、国際的 に非常識と言えるかもしれない。僕はカードを持っていないことを信用させる ために、うつむきながら嘘泣きをした。
「そうだ僕はバカだ。カードも持たずにインドに来てしまって、これからどう すれば良いんだ。分からないよ…」
僕の目から涙は零れなかったが、震える声と鼻水をすする音がラフィオに伝 わったのだろう。彼は何も言わずに出て行った。とりあえずの危機は脱したと 思う。僕はこの時、ふたつのことを考えていた。ひとつは自由自在に涙を流せ る女ってスゲーな。
もうひとつはデリーの旅行会社で料金をカードで支払ったこと。コレがばれた らヤバイなということだ。
温厚なラフィオがホテルを出て行くと、悪人面のジョンとボーイのラムザン が部屋にやってきた。
「一番奥の部屋に食事を用意したから食べてくれ」
夕食は昼食と同じくカレーライスだった。本当にインド人はカレーライスば かり食べる。日本人がご飯と味噌汁を好んで食べるのと同じだろう。粘り気の ないライスに、スープのようなカレーを混ぜて右手で食べる。味はなかなか美 味しかった。なによりも素手でカレーライスを食べるという行為が楽しくて夢 中で頬張った。
しかし銀製の鍋に3人分以上のカレーが入っているなど、料理が大変多くて ほとんど残してしまった。すると僕の食事を監視するように見ていたジョンが、 声をかけてきた。
「お前はもう食べないのか。それでは私が味見をしよう。料理人が美味しい食 事を作っていることをテストするのだ」
ジョンは僕が「イエス」とも言わないうちに、大きな皿にカレーライスを盛 り付けた。味見と言うから少量を食べるのかと思ったら、ライスとカレーが皿 の上にてんこ盛り。ジョンは僕の隣で臆することなくガツガツと食べ始めた。
宿泊客が残した料理を、ホテルの関係者が食べてしまう。これがインド流なの だろうか。スリナガルのやり方なのだろうか。残った料理を捨ててしまうより は良いと思うので何も言わなかったが、気持ちの良いものではなかった。
僕は食事が用意されていた席を立ち、ベッドルームに戻ろうとした。すると ジョンが声をかけてきた。
「私は今日、この部屋に泊まるから」
宿泊客が借りたホテルに泊まると言うジョン。スリナガルならではなのだろ うか。
この日、僕は午後10時にはベッドに潜り込んでいた。そしてこの日の出来事 を思い出していた。騙されていることに気がつかないまま、デリーからスリナ ガルへ飛行機で飛んできた。空港には大勢の軍関係者がいた。湖に浮かぶホテ ルを案内されて度肝を抜く。黒い馬が川の畔で死んでいた。そしてそれを食べ る野良犬ども。スリナガルの街は暗く沈んでいた。法外な料金のツアーを組ま された。その後、自分の置かれた状況に気がつかされた。
スリナガルにいつまでいることになるのだろう。最悪の場合は自力でホテル を脱出して空港に向かい、デリー行きの飛行機に乗ろう。その時はジョンやラ フィオに見つからないように夜の行動になるだろう。夜のスリナガルを日本人 が歩いても平気だろうか。
僕はベッドを抜け出して、窓の前に立った。木製の窓に手をかけ徐々に力を 加えた。ここが開けばいざと言う時に逃げ出せる。窓の下は湖だからボートの 縁に捕まりながら、陸地までゆっくりと進もう。
しかし鍵はかかっていないように見えたが、窓は開かなかった。立て付けが悪 いことを考えたが、力をかけすぎて大きな音を立てると、奥の部屋で寝ている ジョンが起きてしまう。
窓を諦めて玄関に向かった。部屋の奥からはジョンの鼾が聞こえる。玄関の ドアは木製の引き戸になっており、スライドすると大きな音がホテル内に響き そうだった。しかしそれを試す必要はなかった。引き戸には南京錠がかかって いたからだ。恐らくジョンが施錠したのだろう。
僕はいまホテルに閉じ込められている。逃げ出すことができない軟禁状態だ。 もっとも逃げたところで、夜のスリナガルを歩いて空港に行ける自信はまった くなかった。道に迷うだけでなく、襲われる可能性も強く感じていた。
僕は忍び足でベッドルームに戻り、布団と絶望に包まりながら眠りに落ちて いった。
Before Story
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