彼らの要求どおりに金を払っていれば、ここでの命は保障されるかもしれな い。しかし一文無しでスリナガルから解放されても、僕は路頭に迷うだけだ。 カードが使える街へ行く前に力尽きてしまう。何が最善の策なのだろうか。
ベッドで横になりながら有効な金の使い方を考えていると、ドアがノックさ れた。夕食の時間にはまだ早いようだが誰だろう。ジョンとの不毛な会話を繰 り返したくなかったが、僕は返事をした。
「Yes」
ドアの隙間から顔を出したのは温厚なラフィオだった。
「入っても良いかい？」
「どうぞ」
ラフィオは僕を心配してくれているような、悲しそうな笑顔を浮かべながら 床に腰を下ろした。
「ジョンから聞いたよ。ジャンムーに行くお金を払えないって言ってるの？」 「当たり前だ。スリナガルからジャンムーに行くのに、どうして300ドルもかか るんだよ。あいつは嘘を言っている」
「確かに300ドルは高いけど、本当にそれくらいかかるんだよ。ここは普通の街 ではないんだ」
「ジョンはバスもないと言っていたぞ」
「バスはある。しかし乗るのは大変危険だ。爆弾を仕掛けられたり、銃で狙い 撃ちされたりするんだ。ジョンは君の命を考えてバスがないと言ったんだよ」
パキスタンの兵士の標的にされるのだろうか。ここでは有り得そうな話だ。
「車は料金が高くて乗れない。バスは危険。列車も通っていない。歩くのも危 険。僕はどうすれば良いんだ。どうやってジャンムーに行けば良いんだ！」
「そのプランを紹介するために、私がここに来たんじゃないか。ジョンは言わ なかったみたいだけど、スリナガルからジャンムーへ行く飛行機があるんだ。 それに乗れば短時間でジャンムーに行けるよ」
「車で300ドルかかるのに、飛行機に乗れと言うのかい？」 「ああ、そうだ」
僕の中には街で自転車を購入して、ジャンムーまで行こうというアイデアも あった。自転車があれば1日で100キロは進めるだろう。もちろんスリナガルで 売っていればの話だが、このアイデアがにわかに現実味を帯び始めた。
「飛行機に乗るにはいくらかかるんだ」
「50ドルだ」
「50ドル？！」
安い！この金額が正規のチケット代に、ある程度上乗せした額なのかは分か らないが、払うに値する価格だ。
「買う！俺は飛行機でジャンムーに行くよ」
「そうか。商談成立だな」
心配そうな笑顔を浮かべていたラフィオの顔が晴れていた。もっとも、僕の 顔は彼以上に輝いていたことだろう。チケットを手に入れるまで安心はできな いが、スリナガルを脱出できる目処がついた。
「じゃあ、先に50ドルをもらって良いかな」 「オーケー」
僕は財布から50ドルを取り出してラフィオに手渡した。
「ありがとう。君のおかげで元気が出てきたよ。それにしてもジョンはひどい ヤツだ。アイツとはもう話をしたくないよ」
ラフィオは苦笑いを浮かべて部屋を出て行った。僕は再びベッドに体を預け た。横になりながら地球の歩き方をザックから取り出し、ジャンムーの位置を 確認した。ジャンムーはスリナガルから100キロほど南の位置にあり、パキスタ ンとの国境から10キロほどしか離れていない場所にある。
それ以外の情報は載っていなかった。ジャンムーは日本人が観光で行くよう な場所ではないのだろう。それでも僕はスリナガルを抜けられる希望を得たこ とで安心し、ベッドの上でいつの間にか寝てしまった。
Knock!Knock!
再びドアをノックする音が聞こえて、僕は目を覚ました。外は暗い。
「Yes」
ドアを開けて入ってきたのはラフィオだった。夕食の時間だろうか。ラフィ オは沈痛な面持ちをしていた。飛行機のチケットが取れなかったのだろうか。 20ドル程度なら多く払っても良いぞ。ラフィオは先ほどと同じ位置に腰を下ろ した。僕はベッドの上で座りなおして声をかけた。
「浮かない顔してどうしたんだいラフィオ」
するとうつむき気味だったラフィオが顔を上げた。
「お前、嘘を吐いていただろう」
背中が凍りついた。
「背筋が凍る」とは言い得て妙だ。ラフィオの言葉を聞いて、背中に氷の棒を 押し当てられたように感じた。そしてそれに起因して息が詰まり、四肢が動か なくなった。ラフィオは、僕がクレジットカードを持っていることに気がつい たのだろう。カードを見られたとは考えにくいので、デリーの旅行会社から聞 いたのかもしれない。かくして予想は的中した。
「デリーの旅行会社に聞いたよ。お前はカードで旅行代金を支払ったそうじゃ ないか」
そもそも、僕がカードを持っていることを隠したのは、自衛手段のためだ。 カードの存在を知られてしまったら、際限なく集られていただろう。それに対 して責められる謂われはまったくないはずだが、僕は一言も声を発することが できなかった。できたのは、ラフィオの瞳から目を離さないことだけだった。
「俺たちにキャッシュしか持っていないと嘘をつきやがって。いまどこにカー ドを持っているんだ。見せてみろ」
そんなことを教えるわけにはいかない。僕は微動だにせず、彼を睨み続けた。 万が一カードを失ったら日本へ帰ることはおろか、スリナガルからも出られな くなるかもしれない。いわば僕の生命線だ。どれだけの間、睨みあいを続けた か分からない。時間がゆっくりと流れていく。僕がカードの在りかを教えない と言うのが分かったのだろう。ラフィオが口を開いた。
「お前はこの街を知らない。この街ではいま戦争がおきていて、日常的に誰か が殺されている。お前も来る途中に、何人もの兵士を見ているだろう。そうい う場所にお前はいるんだ。俺たちが守ってやらなければ、お前は死ぬんだぞ」
「地球の歩き方」には停戦中と書かれていたが、それはインドとパキスタンの 国家レベルが決めたことであって、市民やゲリラのレベルでは戦いを続けてい るのかもしれない。しかしそういう場所に連れてきたのはお前たちではないか。 守ってくれなくて良いから逃がしてくれ。ラフィオは続けた。
「言っておくけどな、このホテルから逃げても、生きてこの街を出られると思 うなよ。この街には、お前のような外国人はいないんだ。お前の味方は誰もい ない。通行人に突き飛ばされて車に轢かれて終わりだ。だけどお前のことを助 けるやつは誰もいない。金品を盗られて、お前は川に捨てられるんだ」
僕は罵倒されながらもラフィオを睨み返すことしかできなかった。彼の言っ ていることは恐らく本当だ。日本が渡航延期勧告を出したこの街に、僕の味方 はいない。
もし僕が死んだらどうなるのだろうか。僕がスリナガルに来ていることを知 る日本人はひとりもいない。予定の日になっても僕が帰国しなければ、日本に いる家族や友人が何かしらの行動をしてくれるだろう。調べれば、デリーから スリナガルに飛行機で渡ったことは分かるだろう。だがそれに気がついた頃に は、僕の肉体は朽ち果てている。
川の側で死んでいた黒い馬は、腐りながらも野良犬に食われていた。川に捨て られた僕の肉体も、鋭い犬歯に屠られたら後、腐って大地に戻るのだろう。そ うなってしまっては、誰も僕を探せない。
僕はこの時初めて、死ぬことよりも辛いことがあるということを意識した。 それはいま僕とラフィオが対峙している状況のことではない。もし僕が死んで も、肉体をぞんざいに扱わないでほしいということだ。霊魂のようなものがあ るとして、犬に食べられている自分の肉体を見たら、僕は強く心を痛めるだろ う。できることなら家族や友人に見守られて、手厚く葬ってほしい。
「俺はおまえがカメラは売らないって言った時から、おかしいと思っていたん だよ」
ラフィオは続けて何かを言っていたが、僕は自分が置かれた状況とは関係の ないことを考え始めていた。クレジットカードを持っていないとラフィオに嘘 をついた時、涙は零れなかったが僕は嘘泣きをした。すぐに涙を見せられる女 はすごいなと思っていた。
そして嘘がばれた今。こういう状況になったら女はどういう態度を見せるのだ ろうか。そんなことを考えていた。更なる涙を見せるとは考えにくい。涙なが らの嘘がばれた女は、今の僕と同じように相手の顔を睨み返すか、開き直って 大笑いでもするのだろう。
ラフィオは立ち上り、ドアの方へと歩いていった。口を開かない上に、動こ うともしない僕を見限ったらしい。それでも僕はラフィオがいた床の辺りを見 つめ続けていた。ドアを開ける音がした時、彼は言った。
「ジャンムーからチェンナイへの列車のチケットを予約した。2月22日に出発 する列車だ。チケットは21日に渡す」
予想外の言葉だった。今日は17日なので22日は5日後だ。想像していたよりも 早くスリナガルを脱出できるかもしれない。しかし喜びもつかの間、ラフィオ は去り際にこう言った。
「唯一の味方をなくしたな」
僕はこの言葉の真意がいまだに分からない。なぜなら、この言葉によって、 僕が更なる不利な状況に追い込まれることはなかったからだ。しかしこの一言 は、僕に更なる不安を募らせるには十分だった。
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