目を覚ましてからも僕は、布団の中で動かずにいた。部屋を勝手に出て、イ ンド人の家の中を徘徊するのに、気が引けたからだ。腕枕をしながらぼんやり していると、部屋をノックする音と一緒に、子供の声が聞こえた。
「起きてる？」
僕が返事をする前にドアに隙間ができ、そこから男の子が覗いていた。糞ガ キ三人衆のひとりだ。この子は英語を話せる。もちろんスリナガルの言葉もだ。 子供の英語は分かりやすい。声が高くて聞き取りやすいのと、語彙が少ないの で知っている単語が僕と同程度だからだ。
「顔を洗っておいでよ。そしたら朝食だよ」
僕は今起きたかのように目を擦り、ザックを手繰り寄せながら言った。
「顔は洗わなくて良いよ。朝食にしよう」
僕は冷たい水が苦手だ。サウナに入った後で、冷水へ飛び込む人の気が知れ ない。恐らくお湯が出ないであろうこの家の洗面台で、冷たい水を顔につける のは嫌だ。しかし彼は引かなかった。
「駄目だよ。案内してあげるから一緒に行こう」
そういうと彼は部屋に入ってきて僕が起きるのを手伝った。子供の親切心を 断るのも大人気ないと思ったので、起きるための準備をした。とは言っても、 昼夜ジーパンとシャツで過ごしているので、ザックを持って起き上がれば準備 万端だ。だが彼は言った。
「ザックは部屋において行きなよ。タオルなら用意するから」
「いや良いよ。これは持っていく」
この時の僕の心は、疑心の根で覆われていた。ザックを部屋に置いた隙に、 中の荷物を盗まれるのではないだろうか。無くなってから訴えても遅い。盗る 者が賢くて盗られる奴が馬鹿なのだ。そして有ろうことか、僕はこの子を一番 疑っている。彼が率先して盗むとは思っていないが、家の主であるジョンが指 示を出しているかもしれない。
一度そう考えてしまうと、僕を起こしに来たのは作戦ではないのだろうか。 ザックを部屋に置いて洗面台へ向かわせるように、指示を受けたのではないだ ろうか。そう思ってしまう。人を徹底的に疑うことでしか、自分を守る術を見 つけられない自分がいる。
朝食は済んだが直ぐにはホテルへ帰れなかった。理由は教えてくれなかった が、昨日の射殺事件が関係しているのだろう。しかしそういう時でも子供は元 気だ。僕を起こしに来た子が、遊んでくれとせがんで来る。
「庭でクリケットをやろうよ！」
クリケットとは簡単に言えばイギリス式の野球だ。インドやオーストラリア など、イギリスが占領及び植民地化していた国で人気がある。僕はオーストラ リアに長期滞在していた経験から多少のルールは知っていたが、やったことは ない。最初は気前良く相手をしてあげていたが、30分もすると疲れたので止め てしまった。
「もう駄目だ。疲れたから休憩しよう」
「えーもっとやろうよ〜」
「それよりも、君の名前はなんていうんだい？」
「僕はリアーズだ。キミは？」
「シホだ。よろしくな」
「シホはどこの国の人なの？」
「僕は日本人だ。日本は知ってるかい？」
リアーズの瞳が日本という言葉に反応して輝き始めた。
「うん知ってる！ねぇ今からやることを見てて！日本に関係のあることだよ」
僕の隣に座っていたリアーズはいきなり立ち上がり、前屈みをしながら両手 を真下に伸ばした。あしたのジョーの両手ぶらり戦法の姿勢をして、背筋を伸 ばしたような感じだ。そしてリアーズは両手を開いてこう言った。
「Dat you know?」
日本に関係があると言っていたが、どういう意味だろう？「Dat？を知ってい るか？」と聞いているのだろうか。ポーズにも意味があるのだろうか。
「なんだい？それは。よく分からなかったんだけど」
「日本語だから正しい発音が分からないんだよ」
「今のは日本語なのかい？」
「え！日本語じゃないの？Da cchuu noは何語なの？」
「おお！！」
僕は思わず声を上げてしまった。
「リアーズ。キミはこれをどこで聞いたんだい？」
「この間ね、日本人の女の子が家に泊まった時、教えてくれたんだ。とても大 切な言葉だから覚えておきなさいって」
日本の誤った姿がインドのスリナガルに伝わっている。「Da cchuu no」とは 1998年の流行語大賞に選ばれたパイレーツの「だっちゅーの」ではないか。非 常に嘆かわしいと同時に憤りを感じる。僕は強い口調でリアーズに言った。
「リアーズ全然違うぞ。その日本人の女の人の言うことを信用しちゃ駄目だ！」
「え、違うのかい？これは日本で大切な挨拶ではないのかい？」
「ああ、違うよ。何が違うってポーズが違う！」
僕はリアーズの二の腕を掴んで、日本語で言った。
「そんな風に両手をだらだらさせては駄目だ！もっと巨乳をアピールするんだ。 そうしないとお茶の間にいる男性のハートは砕けないぞ。」
そう言って巨乳がある位置に腕を挟ませる。
「これを100人の友達に教えるんだ！そうするまで、お前はこの激戦区を出ては いけない！」
日本語の分からないリアーズは案の定、呆けていた。僕は英語で彼に言った。
「これは伝統的な場所で行う挨拶だ。しかしリアーズのやり方は間違っている。 発音も今のままじゃ通じないぞ。僕が見ていて上げるから練習をしてごらん」
するとリアーズはインドとパキスタンの停戦ラインすぐ側の街スリナガルで、 巨乳をアピールしながら「だっちゅーの」を繰り返し言った。僕はリアーズの 素直で元気な姿に心を打たれて、カラカラと笑い転げた。
昼前にハウスボートへ帰ることができた。まだ犯人は捕まっていないのだろ う。道中、何度も兵士による検問に遭遇した。昼食をホテルで頂き、やがて夜 が訪れた。特にやることもなく、ベッドの上で横になる。
夕食を取り終えてもなお、僕はベッドに顔をうずめていた。暗い部屋の中を、 カーテン越しの紫色の光が照らしている。カーテンの隙間から差し込む光が強 い。ゆっくりと体を起こしてカーテンを開けると、ヒマラヤ山脈から昇る真円 に近い月が見えた。後ろを振り返るとベッドの上に、僕と窓枠の影がくっきり と浮かび上がっていた。月の光が体に突き刺さるように感じる。空き地に目を やると、残雪も紫色に輝いていた。
昼間聞こえていた、船に寄せる波の音が今は聞こえない。無音の世界。日本 にいると、夜でも色々な音が聞こえてくる。外を走る車の音や、冷蔵庫のモー ター音。それらがまったく聞こえない。しかし月を見ていると、この地でも音 が聞こえてくる気がする。日本刀を鞘から抜いた時の高音の余韻。それが月か ら絶え間なく発せられる。
日本とインドでは3時間30分の時差がある。腕時計に目をやると20時を示して いるので、日本は23時30分。友達は楽しく酒でも呑んでいる頃だろうか。それ なのに僕は、スリナガルにいる。日本にいれば友達とカラオケでもやっていた かもしれない。ひとりぼっちが寂しいのではない。僕がここにひとりでいるこ とを、誰も知らないのが辛いのだ。
もし君が道を歩いているならば、真上からの月光に照らされていることだろ う。もし君が僕と同じ時に、この月を見てくれれば、どんなに勇気付けられる だろう。
この日僕は28歳の誕生日を迎えた。
Before Story
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