「今日のツアーは中止だ」
理由は教えてくれなかったが、一昨日の銃殺事件が関係しているのかもしれ ない。昨日に引き続き、今日もノープランになってしまった。しかし僕は嬉々 としていた。以前のラフィオの話では、今日2月21日にスリナガルから出るため のチケットを渡してくれるはずだからだ。そして明日にはこの街を抜けること ができる。それを考えれば、下手にツアーに参加して危険な目に遭うより、ホ テルで待機している方が良い。
夕方になると再びラフィオが現れた。
「チケットを持ってきたぞ」
粗雑な作りの紙に、列車の発車時刻や到着駅が記されている。僕はスリナガ ルから出られるのだ。胸の内に充満していた黒い煙の中に、小さいが強い光が 輝き始めた。だが黒煙を吹き飛ばすには、あとふたつの物が必要だ。ボートハ ウスから空港へ行く方法と、スリナガルからジャンムーへ行く飛行機のチケッ トだ。
「飛行機のチケットも、もらえるかい？それと、ここから空港へは車で送って くれるんだよね？」
「空港へは車で送る。飛行機のチケットは今はない。チケットは帰りの車の中 で渡すよ」
黒い煙は晴れなかったが、一応考えているようなので安心した。僕の知らな いところで、彼らは帰りの手筈を整えていたのだ。恐らく僕の顔は、安堵感に 満ちていたことだろう。しかしその表情が長く続くことはなかった。ラフィオ の一言で凍りつく。
「地図を知らないか？無くなってしまったんだ」
3日ほど前、ホテル内を物色した際に見つけた、スリナガルとジャンムーの地 図のことだ。最悪の場合、自力でのスリナガル脱出を考えて、ザックの中へ隠 しておいた。彼はそのことを言っているのだ。ラフィオが日頃から地図を見て おり、置き場所も覚えていたらまずい。
「いや知らないけど」
「そうか。悪いけど部屋の中を探させてくれ」
ラフィオは部屋の中のタンスや戸棚、鏡台をひとつずつ開けて調べ始めた。 彼は僕を疑っている。別の部屋で見つけて戸棚に入れておいた、日本の小説と 女性自身がすぐに見つかった。しかしそれまでだった。地図は見つからない。 そこには隠していないのだよ。
「見つかったかい？」
「いや…ないな。この日本の本はおまえのか？」
「いいや違う」
「そうか…」
ラフィオは女性自身を脇に抱えながら考え込んでいた。どこに地図を置いた か考えているのだろうか。ラフィオは俯き気味だったが、やがて顔を上げてこ ういった。
「ザックの中を見せてくれ」
あからさまに、疑惑の目を僕に向けてきた。僕がこの申し入れを断るわけに はいかない。断ったら「地図を持っている」と言っているのと同じだ。躊躇す ることすら危うい。僕は彼に言われるまま、ザックを手渡した。
ラフィオはザックのファスナーを開けて中を覗き込んだ。地図はある程度の 大きさがあるので、調べるのは簡単だ。彼はザックの中に手を入れて、荷物を 確認した。
「どうだい、見つかったかい？」
「いや。何もない」
ラフィオは口が開いたままのザックを僕に返して、脇に女性自身を抱えたま ま部屋を出て行った。「人を疑っておいて、謝罪のひとつもないのかい？」と 言いたかったが、英語が出てこなかった。
僕はザックのファスナーを閉めながらほくそ笑んだ。こういう自体は予め想 定していた。一旦はザックの中に地図を入れておいたが、すぐにベッドの台と マットの間に挟んで隠しておいたのだ。狡猾でなければスリナガルでは生きて いけないよ。
スリナガルでの最後の夜が訪れた。連れてこられた時は遥か先に思われた、 カシミール地方スリナガルからの脱出が明日に迫っている。当初考えていたイ ンド旅行を続行できる。この地に来たのは不運だったかもしれない。しかし、 刺激的で得がたい経験をしたのは確かだ。
僕は部屋の中の電気を消して、湖を眺めていた。月の光を反射した湖面が揺 れている。少し風が出てきたようだ。対岸には数は少ないが人工的な光が見え る。危険だと分かっていながら、移住できず生活をしている人たちがいるのだ。
その時だった。湖を越えた遠くの方で閃光が走った。送電線が切れた時に見 える青白いスパークによく似ている。事故だろうか。事件だろうか。いまの僕 にそれを知る術はない。ただ言えることは、スリナガルの感傷に浸るのは まだ早そうだ。
Before Story
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